2010年12月3日金曜日

3つ目の1971年の事件

Friday December 3rd 2010


最後の大事件3は1971年に起こります。
浪人時代のことです。

日本が戦後の混乱から抜けた経済復興の
証しが、1964年の東京オリンピックです。

そして、1970年には大阪での万国博覧会です。
これは地方都市も含めて経済日本と技術の日本が
世界に認められた象徴的なイベントですね。

さらに、1972年は冬のオリンピックが
北の都「札幌」で開催された年です。

フィギャースケートで転倒しても
それがさらなる人気を呼んだジャネットリンの演技。

笠谷、青地、金野の日の丸飛行隊が金銀銅メダルを
独占した70メートル級ジャンプ。

トアエモアが歌う「虹と雪のバラード」が
日本全国に流れた年です。

その1年前の1971年には、札幌で冬のオリンピックの
練習とも言うべき、プレオリンピックが開催された
年なのです。

その年に、マサ少年にはとても大きな事件が
起きたのです。

マサ少年の父親は、Yomiuri新聞社に勤務していました。
定年退職後は自宅で写真の現像、焼付け、拡大印刷が
できる暗室施設をレンタルするというお店をしていました。

そこで、時事通信社経由で海外の新聞社が
暗室施設が必要ということでYomiuri新聞社を通して、
暗室をレンタルしたいという話がきたのです。

もちろん、72年のオリンピックの際には、
プレスクラブが建設されたのですが、前年には
そのような施設ができていなかったからです。

そして、マサ少年の家に北欧三ヶ国のPress Union代表の新聞記者が
3人も仕事をしにくることになったのです。

マサ少年に幸運であったことは、
マサ父が何を思ったか、通訳を要求しなかったことです。
時事通信の仕事でもあるので、通訳はつけるとなれば、
費用は向こう持ちであったにも関わらず、自分の息子は英語が好きだという古い記憶だけで、通訳を断ってしまったのです。

結果として、マサ少年には最高のチャンスが訪れたのです。

当時の札幌の町では外国人を見かけることは、全く0と言っても良い状況です。
まして英会話学校も無い時代です。

そんな状況下であるにも関わらず、
毎日外国の人と話ができるチャンスがマサ少年の前に現れたのです。

凄いチャンスではないでしょうか。

マサ少年が、このチャンスをどのように生かしたのか、それはまた次のシリーズでお伝えします。

☆同じブログをアメブロでも掲載することにしました。そちらもご登録いただければ幸です。
http:ameblo.jp/e-family-ma 

同じに週3回のシリーズに変わります。

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