2010年12月31日金曜日

今年はお世話になりました。

ブログ読者の皆さん。 今年一年お読みいただきありがとうございました。

スマイル・マサ先生の指導はこれからもずっと続きます。

しかし、blogspotはどうも読者拡大が難しいようです。

そこで、2011年からはblogspotとamebloを連動させて、両方で
同じ発信をしていくか、このblogspotを停止するか、現在思案中です。


とにかくまた皆様となんらかの形でお会いすると思います。

ありがとうございました。

2011年を明るく迎えましょう。

2010年12月30日木曜日

松本 亨氏の学校の門を叩く

Wednesday, December 29, 2010

マサが大学受験をしていた1970年代前半の
日本の状況を見てみましょう。
1970年の高校進学率は82.1%(現在96.4%)大学進学率は28.6%(現在52.9%)です。
大学の数も限られており、マサ少年は基礎学力が全く身についていなかったために相当苦労をしていました。同時にマサ少年には明確な目的もなく大学受験突破への強い意志すら感じられませんでした。

でも英語での活躍機会は、ルーズで怠慢なマサ少年の心に火をつけたことは事実です。

ものすごい勢いで世界が動いていました。
日本の経済もどんどんと伸びてきました。
しかし、1973年に第一次オイルショックで先進諸国の経済は混乱し、日本経済も大きな衝撃を受け戦後高度経済成長が終焉しました。

オイルショックとはOAPECが原油の生産削減を宣言、同時にOPECは原油価格の70%引き上げを通告。さらにアラブ産油国は次々とイスラエル支援国であるアメリカ、オランダに対する石油禁輸措置を発表した。これら一連の措置は石油を武器として中東戦争を支援する「石油戦略」とよばれる。停戦後生産削減・禁輸措置は緩和されるが価格はさらに引き上げられ、それまでほとんど変動のなかった原油価格はわずか3ヶ月ほどで3ドルから11.65ドルに急騰した。

その年1973年にマサ少年は札幌から東京にある「松本 亨幸等英語専門学校」へ問い合わせをします。入学希望者は400字詰め原稿用紙10枚で志望理由を記述する課題を出すことになりました。後は面接試験とのことでした。

スマイル・マサが井の頭線の三鷹台にいた玉山君(日大に進学)のアパートに泊めてもらい、渋谷の宮益坂の上にある仁丹ビルの裏にあったその学校で面接試験を受けることになります。

そこでもまた、面白い事件があります。

面接担当者の先生は山中先生という先生でした。その先生の前に座って、英語の質問に英語で回答をするのです。日本人の先生でも英語はネイティブスピーカーと同じにしか、マサの耳には聞こえませんし、そのようなハイレベルな人が居ることも松本先生の講座(このときには東後勝昭先生に代わっていましたが)で思い知っていましたから、驚きません。

その質問の一つで、マサはお惚けをしました。これも忘れられません。

山中先生が“Where are you from?”とたずねてきたのです。
で、マサは、My father is from . と答えたのです。

なぜだか皆さんはお分かりになりますか??

マサには“Where are you”の音が“oya from”=親 from に聞こえたのです。

だいたい英語の質問で「親 from」などと言うわけがありませんが、上がってしまっているマサは判断できずに、「oya=親=my father」との理解があったのでしょう。

また、そんなこんなで、大学進学ではなく、松本 亨高等英語専門学校に入学することになります。

ここからやっと英語の本格学習が指導します。

英語はこのようにすれば学ぶことができると初めて人に言える方法の第1章が始まります。


2010年12月26日日曜日

甘い挑戦「当時覚えた会話表現」

Sunday, December 26, 2010

プレオリンピックが終わっても、ラジオ英語会話を録音して、聞き返していました。

皆さんもご経験があるでしょうが、独自学習には限界があります。
限界を作るのは自分です。マサは次のように思ってます。

「自分の目的のために目標設定をして、努力の方向性を決める水先案内人(pilot)がいないと挫折する。」

このpilotが自分自身である人は、学習の方法を知っている人です。
このような人は最初からは存在しません。
何か達成した記憶や経験があれば、賢明な人ならばそれを応用します。

もう一つは自分自身の中にある「覚悟」です。
妥協なく徹底する「覚悟」です。

これらが未熟な場合に必要なpilot役は「先生」です。

独自学習が難しいことは、多くの皆さんがご経験でしょう。
通信教育で大成された方は相当に少ないと思います。

まして、スマイル・マサは怠け者でした。
それに慌て者という形容詞も付けられていました。
「怠け者の慌て者」です。
「期限が迫るまで何もせず、期限が迫ると慌ててやっつけ仕事をしてしまう」、ということをスマイル・マサの母親は言ってました。

こんな性格(怠け者の慌て者)は絶対に良くないです。

スマイル・マサはラジオ英語会話を聴きながら、利用場面までを設定して使いこなせるようになり、そして37年経ったいまでも覚えている表現はせいぜい次に羅列するものだけです。

I wonder where I am.
「ここはどこ??」
I’m afraid I’m lost.
「道に迷ったみたい」
I’m sorry I’m a stranger near here.
「この辺りは詳しくないもんで」
「私も余所者なんですよ」
「地元じゃぁないんで、ちょっとぉ」
Let me look it up in the dictionary.
「辞書で調べさせてください」
When it comes to SUMO,
I know quite a bit.
「相撲のことなら、任せなさい」

恐らく松本 亨先生のラジオ英語会話は1年2ヶ月くらいのお付き合いでしたが、この程度しか思い出せません。これで英語をインプットしたとは言えません。

この程度でも英語をやったと気分でいたマサ少年はこの先も英語で相当の苦労をします。

しかし、英語の学習やトレーニングがどれ程厳しくても、それを楽しめるモチベーションがマサ少年にはしっかりと築かれていました。


2010年12月25日土曜日

Think in Englishに挑戦開始

Saturday, December 25, 2010

松本 亨先生には面識がないものの、ラジオから流れてくる流暢な英語、そして本に書かれている英語の学習方法は、目からウロコが落ちるというにふさわしい内容でした。

松本先生のご出身が同じ北海道ということもあったのかも知れませんが、非常に強い親近感が湧いていたのも事実ではあります。さらに、そこに掲載されていた英語学習方法は、今考えれば当たり前のことだったとは思いますが、知識レベルが高校生のままであったマサ少年には、斬新極まれりでした。

松本先生の考え方は、Direct Method とかCommunicative Approachとか言うレベルではなかったのです。英語は自分たちの言葉ではない。従ってインプットをしなければアウトプットはできるわけはないだろう。だからまずは徹底してインプットせよ、ということでした。

そして、使うということは、実際に使える場面に出会うまでは知識や技能を温存するのではなく、自ら率先して使う環境を作りなさい、ということです。

この二点を徹底して実践することが、異言語をマスターする唯一無二の方法であるというような内容であったと思います。

マサ少年は、そこからその実践を少しずつ始めます。ところが、マサ少年が実行していたレベルは松本先生のお考えや実践されていたレベルとは月とスッポンほどの差があったのです。

それにマサ少年が気がつくのはまだ先のことです。

とにかく、1971年冬の札幌プレオリンピックがマサ少年に与えた突然のチャンスは大きな大きな転換をマサ少年に与えたのです。

それから、札幌の町にはチラホラと外国人観光客や、中期の滞在者が増えてきました。
マサ少年の父親の現像所にも、外国からのお客様が来るようになりました。

彼らは日本の思い出を写真に取ります。今と違ってアナログですからデータの保存はできません。必ず現像をして焼付けなければ写真になりません。また、彼らはそれが自分で、しかも低価格でできることにとっても共感をもって受け入れます。

スティーブンというアメリカ人もその一人でした。週に1、2回はマサ少年の父親現像所に通うようになります。マサ少年は英会話スクールに行く必要ありません。自宅に英語を話す環境が作られたのです。

これもマサ少年の英語学習モチベーションを継続させる大きな力となりました。

松本
1913914 北海道網走郡美幌町に生まれる。
19367 第二回日米学生会議日本代表としてアメリカに渡り、同年9月ニューヨークのユニオン神学校に入学。
19388 ユニオン神学校卒業後、アメリカ国内でYMCA配下の学生会の仕事をする。
19388 ヨーロッパに渡りフランスとイギリスを訪問してアメリカに戻る。
193810 長きにわたるアメリカ国内講演旅行を開始
1941128 太平洋戦争開戦に伴い敵性外国人として拘留される。
19423 捕虜収容所へ移される。
19421030 釈放され、教会での仕事に復帰。教職の資格を取り、精力的に米国内を講演旅行。講演数は1000を越える。
1949 コロンビア大学教育大学院修了。教育学博士(Doctor of Education)
1949913 帰国。
帰国後明治学院大学、日本女子大学、フェリス女子学院大学にて教鞭を執る。
1951 NHKのラジオ英語会話の講師となる。
1968 松本亨高等英語専門学校(のちにフィニックス英語学院と改称。現在は閉鎖)学長に就任。
1971 NHK放送文化賞受賞
1971 マサ少年がラジオ講座を聴き始める
19723 ラジオ講座のメインの講師を退任するも週末の特別コーナー担当を1年間続ける。
19796月死去

2010年12月24日金曜日

いよいよ加速する英語学習

Friday, December 24, 2010

I like an apple.事件やinteresting事件、そして嵐が丘の訳読など、昔を思い出せば、英語が嫌いになることばかりを述べてきた。
この辺りがスマイル・マサの大成しえないところかと思うほどに「環境のせい」にしていたマサ少年が存在していたことがわかる。

しかし、この時のマサはすでに英語を何とかして自分のものにしようと言う気持ちが充満していた。英語を当事者意識で捉え始めた。そうなると人間はいろいろなことができる。

ここからのマサ少年の英語に関しての経験と伸びが、これから英語を学ぼうとする青少年諸君(寅さんのような言い回しだけど)に大いに役立つヒントになるだろう。

まずマサ少年はこのときに一冊の本を入手する。
それはラジオ英語会話を担当していた松本 享氏が書いた、「英語で考える Think in English」と言う本だ。

この本は実は当時の英語学習者にとっては正にバイブルであった。

英語で考えるということ自体が新しい発送である。

それまでの文法約独法という学校での指導法を真っ向から否定し、そうではない学習方法が満載されていた。
この本は氏が亡くなっている今でも販売されている永遠の名著である。

「英語で考える」ということはどう言うことだ。

この難しい命題に答えるには、英語の学習をしなければいけない。とにかく松本先生が言うように、英語を勉強してみよう、とマサ少年(そろそろ青年)は強く心に誓うのである。そして、この本の出会いがマサ少年の次の大きなステップを作るのである。

2010年12月19日日曜日

まったく英語は面倒くさい!〔takeとbring〕

Saturday, December 18, 2010

ラジオ英語会話もスタートし、Early You. How are you? に聞こえるようになった頃(と言ってもこの数日間の出来事なのだが)、姉の友人が英語を使える機会が欲しいということでお手伝いに来てくれることになった。大学を卒業している社会人である。でも昼間に来ていた。不思議だ。この変の記憶は単なる画像になってしまっていて、時間軸が定まらない。強い印象がないものは記録がないといけない。

彼女と二人になって少し気が楽である。その折に、次のようなことが起きた。北欧のカメラマンは3名である。彼らはマサの父親の現像所で撮影してきた写真を現像し、焼付けるものはなく、フィルムのままにして、それを時事通信社に持参して、本国へ毎日電送するのである。アナログな世界であった。

スウェーデン人のカメラマンが自分で撮影したフィルムを持ってきてそれらを現像した。
フィルムは現像したら大型の乾燥機で乾燥させる。
乾燥にはかなりに時間がかかるので、その間に彼は再び現場へ出かけていった。

彼が不在の間に、ノルウェーかフィンランドのどちらかのカメラマンがやってきて、その乾燥し終わったフィルムを持っていった。

さて、ここでクイズをやろうとしているのではない。
表題の問題が起きた。勘が鋭い方は既にお分かりでしょう。

スウェーデンのカメラマンが戻ってきて、「俺が乾燥させていたフィルムはどうした」と聞いてきた。
そこで、マサ少年は、Mr. ○○ bring them.と説明した。
マサの気持ちは「○○さんが持って行きました。」です。

どうです読者の皆さん。マサ少年の英語力はまだまだこの程度です。大学入試(北大を受けていましたが)で合格点など取れるわけありませんよね。

でもマサ少年は真剣に言ったのです。仕事ですからね。

当然のごとく、スウェーデンの彼はbring them???と聞き返してきます。

自分が持っていたものを何で仲間の○○が持ってきたなどと言うのだろうという気持ちでしょう。

ところがマサは、bringという現在形を使ったことの間違えにも気がつき、慌てて、
Ah, no, no.  Mr. ○○ brought them.
と言ってしまう。

これで話は複雑化した。
時制が合致したので、「○○さんが持ってきた」となれば、なんだ、マサは何を言っているのだろうということになる。

ここでもマサは学んだね。「持ってくる」「持っていく(take)」の二語は日本語では語尾の違いだけだが、英語では全く異なった単語を使うということを。

もちろん、慌てたマサ少年は「和英辞典」を持ち出して、しっかりと調べて返答したので、この問答は5分程度で収束した。なんと言ってもこれは、業務中の出来事である。英会話スクールで練習をしているわけではない。彼らも貴重な時間に無駄な時間は使いたくない。そんな緊張感がいっぱいの仕事であった。

take は「取る」という意味だとばっかり思い込んでいたマサ少年の頭では、取るというのは自分の方へ引きつけるのだから、どちらかと言うと持ってくるという印象が強かったのも傷害になっていた。


この間、実は姉の友人も、おとなしい人であったので助け舟を上手く出す機会を見つけられなくて苦しんでいたようだ。

とにかく国際コミュニケーションは大変だと思いさらに勉強をしようと気合を入れなおすマサ少年であった。



2010年12月18日土曜日

<憶えるという学習法>

Saturday, December 18, 2010

松本 亨先生の英語音声と会話能力に強い感銘を受けた、マサ少年が言葉の基礎力として「音」を大切に扱っているのは、その時の感動が強く残っているからかも知れない。

また、「学習者に感動を与えられなければ、良い教師ではない。」という、スマイルマサ(今のマサ少年)の教師観もこのことが、基盤になっていると考えられる。

さて、皆さん、
「NHKのラジオ英会話」を始め、ラジオやCDなどリスニングメディアを使用しての会話学習には、それに併せた学習法があるのをご存知でしょうか。
それを忠実に実践すると、英会話基礎力が身に付くと言う方法があるのです。

物があっても、努力の方向が違うとなにごとの「力として身につけること」ができないのは当然のことですね。

さて、CDでは目の前に先生(教師・指導員)は存在しません。
ラジオでは先生はいますが、学習者の目には見えません。
相手からもこちらの状況や様子は見えません。
学習者が理解していてもいなくても、先生の解説はそのテキストを利用する人のレベルと理解力を想定してお話をしているだけです。

目の前の私たちの理解度や学習力を見ながらの指導はしてくれません。

ですから、受講する側がしっかりとした学習方法をもっていなければ、せっかくの学習効果も半減するのです。

さて、英語が得意ではない、いわゆる「普通の人」も英会話基礎力が身に付くと言う方法とはどんな方法でしょう。

マサ少年は「典型的な普通の人よりもさらに英語基礎力が無い人」でしたから、型通りにその方法を実行しました。

その方法とは、

1.対訳を読んで会話シーンの全体像を理解する。
2.対訳を読みながら、対応する英語表現の意味を頭に入力する。
3.「英語と日本語は完全1対1対応はしない」という考えを持つ。
4.単語の意味はその文の中で解釈してから、辞書で確認をする。
5.会話表現は自動化するまで幾度も「口に出して」憶える。
6.使用場面を想定して、自分の言葉として話す。
7.実際に使って、通じるということを確認する。

ということにまとめられます。

マサ少年はこれらを意識して日々ラジオ学習に力を注いでいきました。


そうすると次第に英語が頭に入ってくるのです。

場面、場面で表現として頭にそのまま入ってくるようになります。

そして、マサ少年には、7番目の「実際に使う」という機会が、毎日のように訪れたのです。(少なくとも北欧三カ国の記者が来ている2週間は)

マサ少年が、もっとも頻繁に使った表現は

Let me look it up in the dictionary. です。
「それを辞書で調べさせてください」という意味です。

look it up in the dictionaryという連続音の
楽しさも手伝って頻繁に使いました。

一歩ずつですが、マサ少年の英語表現力は
少しずつ上昇していくのです。


2010年12月16日木曜日

NHKラジオ英会話にショック

Thursday, December 16, 2010

とにかく急速に英語の技能をあげなければいけないマサ少年はNHKのラジオ英語会話を始めることにしました。
同じNHKでは、基礎英語や続基礎英語も放送していましたが、マサ少年はそれらではなく、英語会話を選択しました。

これに関しても面白いエピソードがあります。

マサ少年の18歳当時はCDプレーヤはもとより
ラジオと録音装置がセットになったものなどはありません。
ラジカセが世に登場するのはそれからしばらくたってからです。
その当時の録音装置はオープンリールのテープレコーダーという機械です。
ラジオはICラジオです。
マサが買ってもらったラジオは短波放送も入るSONYIC11という機種です。
なぜ短波放送かというと当時受験生に大人気であった「大学受験ラジオ講座」が短波で放送されていたからです。

テープレコーダーはやはりSONYです。
当時最新鋭の機材で SONYソニオマチック5という
小型ながら5号リールのテープまでかけられるものでした。

このラジオとテープレコーダーを接続コードで結んでラジオの音を直接録音するのです。   マサ少年は、まさにこの機材を利用して、NHKラジオ英語会話を録音してみます。  

このラジオ番組を担当していた先生は松本 亨という偉い先生でした。
後から知るのですが、その当時は「戦前からアメリカに渡り、相当な苦労をして英語を体得された」ということだけが松本先生情報でした。

この番組は朝6時台に始まります。
マサ少年は夜更しの朝寝坊という「勉強が苦手な高校生や浪人生」に多いパターン
の子どもでしたから、朝は苦手でした。
そこで、タイマーをセットして、自動的に録音ができるようにしていたのです。
さて、いよいよラジオ番組を聞きます。

テープレコーダーのスイッチを入れ、再生するとそこから流れてきた最初の音は
Early You.”です。
「おお。そうか。朝早く起きている人に対して、早いですね。=Early ですね。といっているのだと思って感動していました。」
そして、松本先生の英語がそれまで聞いていたどの英語の先生よりもネイティブスピーカーの音と変わらない素晴らしい音であったことに感動していました。

最初のレッスンに登場する英文のいくつかは今でも覚えています。
I wonder where I am.”「どこにいるのかしら」
I’m afraid I’m lost.”「道に迷ったみたい」
I’m sorry.  I’m a stranger around here.”「すみません。私も土地の者じゃないので」

それから毎日、感動が後押ししてくれたことと、必要性の二つの大きなモチベーションの流れが私の後押しをしてくれました。
3,4日が過ぎて、英語のスピードに耳がなれ初めて来た頃、最初の台詞“Early you.”が違って聞こえたのです。

それは、“How are you?”です。
アレッ! そうか、挨拶か。“How are you?”だと。

この衝撃もガツンとマサ少年の体に響きました。
正確な音と抑揚で表現された“How are you?”という表現は生きていると思いました。

英語は日本語とは全く違う音を持つ言語である。音こそ英語の命だと、初めて確信をしたマサ少年でした。

2010年12月11日土曜日

紅茶と緑茶

Saturday, December 11, 2010

彼ら3人にマサ少年が最初に発した言葉。
それはハローでした。
その次が問題です。

お茶の好みを聞き出すというmissionをもらったのです。

高校3年間の学習は終了しているマサ少年です。
当然「紅茶と日本茶とどちらが良いですか?」
なんていう表現は分かっています。
でも言えないのです。

金縛りにあったみたいに言えないのです。

その金縛りを解くのに、1分はかかりました。

根性を出して、気合を込めて、全身全霊の力を振り絞ってこのカルチャーショック状態から抜け出して質問します。

Which do you like better,
            green tea or red tea?”

完璧だ。「緑茶と紅茶とどっちが好きですか?」
構文通りに進んだ。
どうだ、すごいだろう。「回答をよこせ。」
と考えていましたが、彼らは躊躇するのです。

Red tea?”と聞き返してきました。

こいつは何を言っているんだ。紅茶は紅の茶=red teaに決まっているだろうが?

マサ少年の家はアメリカ人のようにコーヒーなどは飲まない。
飲み物は紅茶と決まっていて、しかも、日東紅茶ではないぞ、有名なLiptonしか飲まないのだぞ。

マサ少年は“Yes, red tea.”と応えます。

彼らは三人三様に怪訝な顔をしてから、
Green tea, please.
と言ってきました。

なんだ、日本のものに興味があるのだな。
中々やるな。とマサ少年は思いつつ、緑茶を取りに台所へ行きました。

どのくらいの期間があったかもう忘れましたが、

マサ少年は少し訝しく思っていた、Red teaを辞書で調べてみました。見ました。いや見ません。みつかりません。


「あれ、どういうことだろう。」と思いますが、その点、成績は悪くとも、機転が効くマサ少年は「和英辞典」を調べます。

「紅茶=tea

あれっ!  紅茶はteaだったのです。

Red Tea=紅いお茶=紅茶という単語にはならなかったのです。

マサ少年はこの時の経験を今でも忘れません。

二つの大きな事柄です。

一つは、日本語と英語は1対1対応はしないのだということ。

もう一つは、英語を知識として知っていても言葉は人が相手の人に伝えるための道具にしかすぎない。だから相手がどのような人であっても交流しようという意思がなければコミュニケーションを取ることはできないんだということです。

この経験がマサ少年の将来に大きな一歩となったのです。


<<ただいま発行ブログと公開メディアを整理中のためしばらくは連載日が不定期になります。発行後は直ちにツイッターでお知らせします。>>

Twitter でつぶやき中

2010年12月9日木曜日

欧米人の目は青かった



マサ少年の家に北欧三ヶ国のプレスユニオン代表の新聞記者3人が仕事で来ることになりました。
その初日のことです。

マサ少年はどきどきしながら3人の到着を待ちます。
そして、到着。

マサ少年は、まずは普通の日本人としか会話をしたことがありません。
マサ少年の家族全員がそんな感じです。

まして、外国人と半径1メートル以内の空気を一緒に吸うなんてことが有り得るわけはなかったのです。

それが現実になったときのマサ少年の胸の高鳴りは
単なる興奮状態を超越していました。

そして、母親の言うとおりに、まずは挨拶をして、お茶は何が良いかを尋ねることが
最初のミッションでした。

正にMission Impossibleです。

だって皆さん。初めて外国人に会うのです。
そして、会話をしなければいけないのです。

それまで、テレビの画面で見ていた
「ローハイド」に出演していた
若き時代のクリントイーストウッドは
白黒のクリントイーストウッドでした。

だから頭髪が薄く光っている、
目が白っぽく透き通っているという
イメージだったのですが、
そこにいるのは本物の外国人です。

しかも北欧の人ですよ。
目が青いんです。
頭髪は金髪なんです。
それに加えて、男の人なのに
香水(コロン)をつけているんですよ。

まぁ、驚かない方が不思議です。

さて、マサ少年。
生まれて初めての大きな壁。
どうやって乗り越えるのでしょうか。

一般の人が経験することがない壁です。

いわゆるカルチャーショックです。

マサ少年がこのカルチャーショックをどう克服して、
この先の大役をこなしていくことになるのでしょう。

それは次回のお楽しみ。

See you the day after tomorrow.

スマイルマサの若い頃に実際にあった出来事を通して、英語を身につけるということはどんなプロセスや方法があるのかを現在の英語学習者にお伝えしています。

毎週、木曜日、土曜日、日曜日 の週3回の連載です。


2010年12月3日金曜日

3つ目の1971年の事件

Friday December 3rd 2010


最後の大事件3は1971年に起こります。
浪人時代のことです。

日本が戦後の混乱から抜けた経済復興の
証しが、1964年の東京オリンピックです。

そして、1970年には大阪での万国博覧会です。
これは地方都市も含めて経済日本と技術の日本が
世界に認められた象徴的なイベントですね。

さらに、1972年は冬のオリンピックが
北の都「札幌」で開催された年です。

フィギャースケートで転倒しても
それがさらなる人気を呼んだジャネットリンの演技。

笠谷、青地、金野の日の丸飛行隊が金銀銅メダルを
独占した70メートル級ジャンプ。

トアエモアが歌う「虹と雪のバラード」が
日本全国に流れた年です。

その1年前の1971年には、札幌で冬のオリンピックの
練習とも言うべき、プレオリンピックが開催された
年なのです。

その年に、マサ少年にはとても大きな事件が
起きたのです。

マサ少年の父親は、Yomiuri新聞社に勤務していました。
定年退職後は自宅で写真の現像、焼付け、拡大印刷が
できる暗室施設をレンタルするというお店をしていました。

そこで、時事通信社経由で海外の新聞社が
暗室施設が必要ということでYomiuri新聞社を通して、
暗室をレンタルしたいという話がきたのです。

もちろん、72年のオリンピックの際には、
プレスクラブが建設されたのですが、前年には
そのような施設ができていなかったからです。

そして、マサ少年の家に北欧三ヶ国のPress Union代表の新聞記者が
3人も仕事をしにくることになったのです。

マサ少年に幸運であったことは、
マサ父が何を思ったか、通訳を要求しなかったことです。
時事通信の仕事でもあるので、通訳はつけるとなれば、
費用は向こう持ちであったにも関わらず、自分の息子は英語が好きだという古い記憶だけで、通訳を断ってしまったのです。

結果として、マサ少年には最高のチャンスが訪れたのです。

当時の札幌の町では外国人を見かけることは、全く0と言っても良い状況です。
まして英会話学校も無い時代です。

そんな状況下であるにも関わらず、
毎日外国の人と話ができるチャンスがマサ少年の前に現れたのです。

凄いチャンスではないでしょうか。

マサ少年が、このチャンスをどのように生かしたのか、それはまた次のシリーズでお伝えします。

☆同じブログをアメブロでも掲載することにしました。そちらもご登録いただければ幸です。
http:ameblo.jp/e-family-ma 

同じに週3回のシリーズに変わります。