2010年10月8日金曜日

中学へ進学・英語学習スタート

Friday October 8th 2010

マサ少年も中学校に進学することになりました。
英語の教科書も数学の教科書もどの教科書も新品です。
詰め襟の学生服も学生帽も学生カバンもすべてが新品です。
そして、気持ちも新品にして中学校へ通い始めます。

マサ少年の記憶には、小学校時代に熱心に勉強をしたという記憶はありません。
短期の記憶力は相当優れていた小学生時代、
その才能は小学校で好成績を取得し続けるには、
十分でありました。
小学校でのテストは単元毎に頻繁に行われていたので、
忘れる前にテストをしてくれていたことと、
学習内容がマサ少年には簡単なものが多かったからだったのでしょう。
少なくとも満点以外の点数を取ることは稀だったようです。

ただし算数では、著しく低い点数を取ってきたことが2回ほどありました。
それは、速さの問題です。
その頃のカリキュラムは相当に充実していましたので、
学習内容はきちんと勉強さえすれば、
現在の中堅私立中学校に合格することができる程度のことは
やっていました。

しかし、速さの応用問題のテスト時には、
100点満点の30点程度しか取れない状況がありました。
この辺りに、マサの弱点が潜んでいたのです。
いわゆるしっかりと学習をして基礎を固め、
その基礎の上に知識を積み上げていくということが
実は苦手だったのだと思います。

マサ少年が入学した中学校は一条中学校という名前でした。
札幌の街は京都と同じように、碁盤の目になっていて、
東西に伸びる通りは一条、二条、三条・・・と呼ばれます。
この中学校は北一条通りと豊平川との交点に当たる場所。
すなわち北一条通りの端っこにありました。いわば川縁の学校です。

三角形の敷地に三角形に建物が配置され道路に面した2辺が校舎棟、
底辺は土手に面していて、そこに屋内体育館があり、
三辺に囲まれて、運動スペースがあります。
屋外ですが、バレーボールコートが2面とれる広さです。

グランドは体育館のさらに川寄り。
分かりやすくいうと、土手(堤防)を越えた向こう側です。
要するに河原を整備してグランドが作られています。
年に5ヶ月は雪に埋もれていますので、
あまり役には立ちません。

体育祭は円山競技場を拝借して実施していました。

この中学校は市の中心部からも歩いて15分程度でした。
通学してくる生徒は市の中心部で商店の経営者の子どもも居ましたし、
地元のラーメン屋の子どもやサラリーマンの家庭の子もいました。
さらに川下の雑品屋さんの子もいました。
雑品屋さんというお仕事は廃品を集めて部品を分解して、
材料として売る商売です。
ですから労力のわりには収入が低い大変きついお仕事です。

所得だけや生活環境で考えると、
一つの公立中学校に
高所得層から低所得層までの家庭の
子どもたちが集っていたという、
珍しい中学校であったと思います。

また、その中学校は、「荒廃した中学校」として
市内では結構名前が通っていました。

その当時ですから、ツッパリという名前もありません。
「不良」と呼ばれていました。

学校内での今風のいじめはありません。
大概はみんな仲間です。
「不良」も普通の子も良い子もみんな仲良しでした。
先生の権威も威厳もありました。
先生が生徒から殴られることは有りません。
先生が生徒を殴ることは日常のことです。
ただ一回だけ、卒業式にだけはお礼参りという
儀式的な部分は残っていたかなという状況です。
(美談すぎるかな)

不良男子の典型的なスタイルは、短ランです。
いわゆる学生服の丈は短く(といってもそれほど短くはしていません)して、
ズボンは「ラッパズボン」です。
ラッパズボンとは
膝から上がグッとしまっていて、
膝から下はラッパが開くように裾が広がっています。

女子群は「ずべこう」と言われていました。
スケ番という言葉はその後でてきました。
スカートが相当長いのです。
長すぎる人は床までついていたかも知れません。

今とは全くの逆状態です。

そのような中学校に進学したマサ少年は、勉強にはあまり興味を持たなかったようです。

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